『瑞鳳殿・仙台…豪華絢爛な伊達家の歴史!』津々浦々 旅! 宮城

宮城県
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桃山の遺風を伝える豪華絢爛な廟建築・・・瑞鳳殿! 2023.08

  • 瑞鳳殿は仙台市青葉区の仙台城の本丸跡と向かい合う経ヶ峯にある1637年に建立された仙台藩祖伊達政宗の霊廟です・・・参道には大きな杉の木が整然と生えており歴史の長さを感じさせられる場所になっています・・・瑞鳳殿は桃山の遺風を伝える豪華絢爛な廟建築で1931年に国宝に指定されるも戦災によって残念ながら焼失してしまい現在の建築は1979年に再建されたものとなっています・・・敷地内には二代・三代の霊屋の他に発掘調査の資料を展示する資料館などもありますよ・・・しんどそうな急な階段が長く続いています。
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  • 初代藩主の伊達政宗は生前遺骸を経ヶ峯に葬るよう遺言し1636年に没したのですが第二代藩主の忠宗は政宗の遺言に従い1637年10月に政宗の御霊屋を経ヶ峯の東部に建立して「瑞鳳殿」と命名しました・・・瑞鳳殿の周辺には二代藩主の伊達忠宗の霊廟である感仙殿や三代藩主の伊達綱宗の霊廟である善応殿があります・・・また9代周宗の墓や11代斉義の墓や斉義の妻・芝姫の墓である妙雲界廟や5代吉村以降の藩主の夭折した子女の墓である御子様御廟といった伊達氏に関連する霊廟や付属施設があり一帯が「経ヶ峯伊達家墓所」として仙台市指定史跡となっています。
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  • 瑞鳳殿は本殿・拝殿・唐門・御供所・涅槃門からなり桃山文化の華麗な建築で仙台城本丸を向くように西向きで造られています・・・伊達政宗の出身地は出羽国(現在の山形県米沢市)で1567年生まれで1636年(享年69歳)に没しましたが奥州に覇を唱えた猛将です・・・また伊達政宗は片目の武将であることはよく知られていますが隻眼の理由は天然痘に罹ったためと言われております・・・政宗は命が助かった代わりに右目の視力を失い醜い容姿になり暗い性格になったと言われております・・・見かねた家来の片倉小十郎が政宗の右目を切り落としその後政宗は独眼竜政宗として自信を取り戻したと伝えられています。
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  • 豊臣秀吉による天下統一が進んでいた1590年に豊臣政権と北条氏との対決である小田原討伐が実行されました・・・当時伊達家は北条家と同盟関係にあったため政宗は豊臣秀吉と戦うべきか小田原に参陣するべきか直前まで悩んだといわれています・・・結局20万の大軍を率いる豊臣秀吉に抗うことはできず秀吉に服属しますが小田原討伐に遅刻した伊達政宗は奥州仕置きにより会津領を豊臣秀吉に没収されてしまいます・・・また伊達政宗が豊臣秀吉と初めて対面したときに甲冑の上に白い喪服を着る「死に装束」姿であったというのはとても有名なエピソードです。
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  • 豊臣秀吉の死後1600年に関ヶ原の戦いが勃発しました・・・そのころ伊達政宗は「長谷堂の戦い」で最上義光と共に直江兼続と戦をしていました・・・直江兼続は盟友・石田三成の勝利を終始信じており徳川家康が敗れたとの情報が届けば最上勢は降伏するだろうと見ていました・・・しかし関ヶ原で9月15日に石田三成が敗れたと言う知らせが直江の本陣に届きました・・・関ヶ原の戦いで東軍(徳川方)が勝利したことにより直江軍は撤退し伊達政宗側の勝利となりました・・・1601年伊達政宗は仙台の初代藩主となり仙台城を築き上げましたが地元では「青葉城」という名で人々に親しまれ伊達政宗が整備した寺社仏閣も現代にまで仙台藩の栄光を伝えています。
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  • 政宗の肖像は天然痘で失明した右目は白濁して見開いており健全な左目はより大きく見開いています・・・政宗の生前の希望に従い右目を黒く描く肖像もあるそうです・・・「たとえ病で失ったとはいえ親より頂いた片目を失ったのは不孝である」という政宗の考えから死後作られた木像や画にはやや右目を小さくして両目が入れられています・・・片目の像として著名なものとしては松島の瑞巌寺に秘蔵されている伊達政宗像があります・・・政宗が登場するフィクションなどでは眼帯をつけているものが多いのですが実際には目を眼帯で覆った様子はないそうです。
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瑞鳳殿ー仙台藩祖伊達政宗公が眠る霊屋 (zuihoden.com)

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